Tさんのお葬式

16日に亡くなったTさんのお葬式に参列させて頂いた。

Tさんは赤穂で生まれ育ち、結婚して神戸に住まいされてました。

阪神大震災の時に、僕は十二指腸潰瘍を患い市内の病院に入院していた。
すごい揺れで目が覚め、看護詰所に行くと医療器具が散乱し、テレビを見れば神戸市長田区が火の海になっていて唖然と!

直ぐに病院の公衆電話からTさん宅に連絡し安否確認(運よく電話が繋がり)Tさんの元気な声にほっとする。

直ぐにでも駆けつけたかったが、退院できたのは1ヶ月近く後になっていてた。

3月2日、震災後初めて神戸に行く。まだ長田の街は焼け跡の瓦礫で道路は行き止まりばかり。三ノ宮の街は悲惨な姿。どのビルが真っ直ぐ立っているビルなのかわからないくらい。大開の道路は陥没したまま。
それからしばらくボランティアで神戸に留まり、赤穂と神戸を往復する。ダンプカーを運転し、震災の瓦礫を淡河の山に捨てに行く日々。

城の下通りのTさんの家に行ったら、木造平屋の長屋だった家は半壊。玄関の戸も開かなかったと、その時の恐怖を話して下さった。

「私はコーヒーカップや皿等が好きで高価な物も沢山あったけど、地震で棚から落ちてみな割れた。大事にしてたものでも、なんとも呆気なく無くなるもの。命が有ることがどんなに有り難いか」と言っておられた事を思い出す。

そして被災されたTさん夫婦は、近くの息子さんのマンションに一緒に住まいされていたが、故郷の赤穂に帰って来られ、野菜を作ったり幼なじみや近所の方との付き合いに楽しく過ごす毎日で、僕の子供たちも可愛がってくれ何かとお世話になった。

病気されてからも家にはよくお邪魔したり、一緒に天理まで行ったり、デイサービスでのリハビリも頑張っておられ、娘さんが明石から何度もお世話に通っておられたが、息子さんは小学校の職員で忙しく、なかなか来れない様子だった。

年末から毎日病院に見舞いに行くと、息子さんが付き添いされ、点滴だけの痩せていたお母さんの表情がみるみる優しく穏やかな顔になり、息子さんとも色々話をした。お母さんに寄り添い、手や顔をさすり、病室で年を越された。

僕はお正月三日間病室に通って、
「Tさん喋れないけど幸せそうやな。息子さんも満足な気分で神戸に帰って行かれて良かったな」
そんな風に感じたので、それからはもう様子を見に行くこともしなかった。

あの震災から21年、87歳まで故郷赤穂で過ごし、ご主人を見送って子供さんに看取られ旅立たれました。

Tさん、本当にお世話になりました。
治療も大変な中、頑張られお疲れ様でした。
また生まれ変わり、ご縁を頂きたいです。ありがとうございました。
            合掌