石崎一夫先生を偲んで

2月24日、79歳をこの世の最後にお出直しされた、恩師石崎一夫先生の通夜と告別式(28日)に参列させて頂いた。天理の天礼会館の一階ホールや二階ホール、和室もいっぱいの人で溢れていた。懐かしい顔を久しぶりに見て声をかけ合う姿があちこちで見られる。告別式は朝から雨だった。

50年も遡る1970年、天理中学吹奏楽部の指導をしてくださったのが先生だった。東京藝大時代の写真がバリトン教則本に載っていた。
三年間で色んな曲を演奏したが、思い出に残る曲を何曲かあげてみる。
僕は1年生の時はドラムのパートだった。その頃流行った映画「明日に向かって撃て」の挿入歌「雨にぬれても」の練習に、先生は自ら踊りながら「こんな風に楽しい気持ちを可愛いらしく音に出すんだよ!」と曲に込められた思いなどを話して下さるのが常で、先生は音楽の楽しさを教えてくださった。
3年生の時沖縄が日本に返還された時には、沖縄民謡の「たんちゃめ節」など何曲か演奏し先生と一緒に歌ったりした。
ヨハンシュトラウスの「春の声」ではウィンナーワルツのリズムを根気よく教えてくださった。
ダッタン人の踊り」マーチ「木陰の散歩道」バースタインの曲などをよく演奏した。
トランペットが同級生1人だったので2年の途中からトランペットにコンバートされた僕に腹式呼吸の基礎から手取り足取り教えてくださった。コンクールの曲「スラブ舞曲」も思い出深い。

こんなエピソードもあった。1年の時、天理市民会館にてトップバンドコンサートだったかの演奏会があり、天中だけでなく何団体かの演奏があり、当時電車通学をしていた僕とキャプテンT先輩とF先輩は終電も無くて、先生の軽自動車で自宅まで送ってくださった。桜井で先輩2人が降り僕と2人だけになって、真夜中のドライブ中、脅かすつもりではなかったんですが西峠という榛原に向かう峠にオバケが出るんですよと言う話をしたんです。
何年かぶりに先生にお会いする機会があり、先生はその時の事を覚えていてくださり笑い話になった事でした。

なんと言っても先生が作曲された中で、誰もが知ってる大ヒット曲「ワッショイ」を書いて来られた時の事を今でも覚えている。天中生と天高OBが甲子園の応援練習をしていた時に譜面は配られた。
甲子園の常連校天理高校野球部の応援は、現役吹奏楽部が夏の演奏旅行と重なり、天中生とOBが応援に行く事が多かった。(現役が行くより天中とOBバンドが応援に行く時の方が勝つというジンクスも生まれた)OBも都合のつく者が入れ替わり立ち代わりメンバーに入るので、誰でも覚え安い簡単な応援曲をと先生が書いて来られたのがワッショイだった!
他にもファイトというファンファーレもあったが、この曲は次第に演奏されなくなった。
それにしても応援曲にしては最初はテンポがスローで???となるんだが、いつしか天理がサードまでランナーがいった時にじっくり攻めるという意味で、超スローテンポから徐々に早くなり相手にプレッシャーをかける名曲となった。
(だがこの曲は天理の野球部員にもプレッシャーになったらしい)
当時の野球部橋本監督の名セリフ「ぼちぼち行こか!」が生まれた

喪主の長男さんが「父は湿っぽいのは嫌いなので明るく送ってください」と挨拶された通り、出棺の際には教え子達が楽器を持ち寄り、天理高校指揮者が雨にぬれながら指揮をし、参列者は何度も何度もワッショイの掛け声で見送った。
先生も大勢の見送りの中、雨にぬれてもを踊りながら逝かれただろうか。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7


写真は石崎先生が30代の髪の毛フサフサ時代。1年(ドラム)2.3年(トランペット)のコンクール奈良県大会、関西大会。
團伊玖磨先生作曲の交響曲「元の理」音楽研究会ファンファーレ隊のメンバーとして、読売交響楽団とのレコーディング時での写真。
天中卒業アルバムから練習風景。