阪神大震災震災後20年

1994年暮れ、僕はストレスからか真っ黒い血便が続き、十二指腸潰瘍で入院していた。2・3日くらいで退院できるだろうと思っていたら、医者はしばらく治療しないといけないとのことで、正月を越す事になる。
 年が明け17日早朝、病院が倒れるんではないかと思った程の揺れで目が覚めて、あわてて看護詰所に行くと医療器具が棚から落ちて散乱している。すごい地震だ。家に安否の連絡をとったら、家内や子供は大丈夫という。名古屋から僕のお見舞いに来ていた家内の母も、足止めを食った。
 病院のテレビを見ると火と煙のあがる神戸の街が映しだされていた。神戸に住む知り合いに電話をしたら大丈夫だとの事だった。病院からの公衆電話だったから運良く通じたのだった。

 「僕に何が出来るだろうか?何とかしたい」と焦ってもベットに拘束されているので何とも歯がゆい思いで過ごしたが、2月10日に退院出来、3月2日にはじめて神戸に入った。

 三宮にあるビルはどれもこれも斜めに傾いていて、まっすぐ立っているビルが不思議なくらいだった。長田の焼け跡にいけば、アチコチ瓦礫の山ができて道が塞がれ、何度もUターンした。

 それからボランティアとしてしばらく神戸に残った。初めて運転したダンプで瓦礫をいっぱいに積んで、淡河の山へ捨てに行く。朝一で出ても長蛇のトラックの列で一日2回くらい捨てに行くのがやっとの事だった。
 神戸は復興の土埃で常に街中に霞がかかっていてマスクなしではいられない。あの悲惨な建物の姿とと匂いは忘れられない。
 あの阪神高速が倒れたすぐ南側にある全壊建物の片づけに行った時、その家の方は「地震があったあと開かなくなった玄関をなんとかこじ開け家の外へ出てみたら、いつもは見えない六甲山が見えたんです。」でも家族皆無事でしたとの事。瓦礫の中から小学生の子供さんが書いた絵や家族の写真などを見つけたら、何とも言えない思いになった。
 どこの屋根もブルーシートで覆われていたのが、神戸はこの10年20年で驚くほど美しい街に変わった。当時1歳だった次男も去年成人式を迎えた。

 家は倒れなかったが自分の身体が倒れていた。心も倒れていたんだろうと振り返る。
名古屋の義母に言われたらしく、家内は毎日病院に通ってくれた。時には雪の中を次男をおんぶしてその上からねんねこをかぶって自転車をこいで来てくれた姿を病室の窓越しに見送った。家内にはもっともっと感謝しなきゃとは1月17日が来るたびに思うのだけれど・・・・。